今、寂しいなら僕を呼んで

 寂しいからごちゃごちゃ言いたい。全てホウテキ(漢字が出ない!)したい。ま、要するに全てを投げ出したいということ。「あんたに何が分かるんだい!」と言いたい。やはり、この悲しみと喪失感を抱えたまま走り続けるのは、想像以上に荷が重い。おい、どうしてくれるんだ。一生恨むぞ。誰とは言いませんが、大好きだったんだぞ、バカ野郎!

 もうね、誰とは言いませんが、泣かせてくれ。泣き疲れて眠る夜だけど、もっと泣かせてくれよ。本当はもう勉強もしたくない。テキストも開きたくない。でも、何かしていないと自分を保てないからしているだけ。なんでこんなに苦しいわけ?なんでこんなに悲しいわけ?ドラマだって観られるわけないだろう。そんなに早く懐かしむことが出来るわけないだろう。何なんだ。皆、観てるの?

 喪失と再生、という変なテーマを掲げ、ここまでひた走り、勝手に盛り上がっては沈み、という流れを繰り返してきました。なにが喪失と再生だ。再生なんか出来るわけないだろう。永遠に失われたんだよ。もう全て終わったんだよ。「折り合いをつけろ。悲しみに浸るな。振り返るな。」と自分に言い聞かせてみたものの、全く効果はなく、一向に私の地面は乾きません。

 もはや打つ手なし、といった局面を迎えながら、勉強に邁進していますが、どこかでプツンと切れそうだ。「もうくよくよしないで。僕が側にいるじゃん。」ってあんた、私のことを草葉の陰から見てたんか?ところ構わず泣き出す私を見てたんか?また好きになってもいい?少しだけよそ見したけど、また好きになってもいい?

 寂しいから君を呼ぶね。どんなに遠く離れても、諦められるはずはない、と思っていたけれど、やっぱり君は諦めさせてはくれなかったね。いつも私が辛い時、側にいてくれた。大事にしなよ、いつも側にいる人を。もう全て終わりました。急がずとも必ず、真に分け隔てなく、いつかは終わります。青年よ、生き急ぐことなかれ。

急がずとも必ず

 夢の中でも泣き疲れ、目が覚めた瞬間から悲しいのは、甘んじて受け入れよう。これまでも、これからも、そうやって受け入れて、受け流してきたはずだから。先日、春馬くんのことを思っていたら、泣き腫らしてしまった私。タイミング悪く父上が帰宅し、うさぎの目をした私を見るなり「どうした?沙悟浄か?沙悟浄で泣いてるのか?」とからかってきました。誰が岸部四郎で泣き腫らすのよ。いや、沙悟浄も悲しいけど。

 父上いわく「もう天国で幸せに暮らしているから大丈夫。」とのこと。毎日驚くべき数の人が亡くなり、その一方で、新しい命が誕生している。愛しい我が子を残し、病気で他界する人もいる。だから春馬くんの命もその数多の繰り返しのひとつに過ぎない。これが運命なんだと言われました。私もそんな風に思いたい。運命なら抗いたい。

 ヤフーで春馬くんに関する沢山の記事を目にするけど、開いたことはありません。だってそこに真実はないから。 ただ、ジョンハンが赤い糸を手繰り寄せながらの動画で「もうくよくよしないで、僕が側にいるじゃん。」とのメッセージにとても救われました。単純だね!「僕が側にいるじゃん。」そうだよ、ジョンハンがいるじゃん。何が不満なんだ。何がそんなに悲しいんだ。 振り返るな、諦めるな。ジョンハンが与えてくれた全てを受け止めろ。

 運営さんは、なぜ私がくよくよしていることが分かったんだろうか。ジョンハンは、なぜ僕がいるのに心ここにあらずな私が分かったんだろうか。いかん、スピリチュアルが止まらぬ。確かにこの世は巡り合い、新たな命が芽生え、育ち、また巡り合い、とその繰り返しです。私がいくら泣き腫らそうが、もう二度と巡り来ぬ、あの夏の日。春馬くんが生きていた時間。私が生きている今。もうくよくよしないで、僕が側にいるじゃん。     

嘘も本当も君がいないなら同じ

 ペース配分の計算があまり得意ではない私。いつも試験一ヶ月前くらいになると、のたうち回っています。まだ時間はあるが、ヘラヘラもしていられないわ。することが勉強くらいしかない上、大して熱意もなくなりつつあり、なかなかの煮詰まり具合なり。もう勉強したくないからさ、絶対に一発で受かりたい。不安は勉強量で払拭せよ。振り返るな、諦めるな。

 もう終わりだね。色んなことが終わり、そして始まっていく予感。どこへ続くかまだ分からぬ道でも、きっとそこにあなたがいる。今日はひとつある決断をし、大切なものを手放しました。始めるために終わる。新しい一歩を踏み出すために手放す。きっとその繰り返しなのかもしれない。

 いよいよ春馬くんの最後の姿を収めたドラマが始まるね。私はおそらく観られないと思うけど、ばっちり録画予約。いつかドラマを観ながら、偲べる日が来るかもしれないから。今は録画ばかりして、一向に観る気が起きない。思い出には出来やしない。でも唯一観られるのは、数年前のFNS歌謡祭にて、郷ひろみと「言えないよ」を歌い上げる春馬くんの映像!当時は母上と「春馬の歌い方、爺臭くないかい?」と爆笑した記憶が。春馬、めんご、めんご。

 短髪に革の上着を着こなし、凛々しかったね。「爺臭い」と笑っていられるうちが幸せだった。あの時は幸せだった。君は何事にも一切手を抜かなかったね。時に思い詰めたような眼差しをすることもあったけれど、それもとても魅力的だった。年齢を重ねて、さらに円熟味が増した春馬くん。これからもとても楽しみだった。何で死んじゃったんだ。何で逃げられなかったんだ。何が彼をそんなに追い詰めたんだ。

 まだ見ぬ息子の名前は「春馬」に決めていた私はどうなるのだ。悔しくて悲しくてやるせなくて、のたうち回りたくなる。このやるせなさを勉強にぶつける!とテキストと日々にらめっこの毎日だけど、やっぱりだめかもしれない。歌い方が爺臭いところも大好きだったのに。あとね、この映像で見逃せないのは、郷ひろみが歌っている隣で、春馬くんが感じ入ったような表情で頷くところ。

 そういうところだよ!そういうところが堪らなく好きだけど、それじゃ疲れちゃうよ。もっと気を抜いて、手を抜いても良かったんだよ。それが出来ないから、春馬くんなんだろうけど。あの頷きを見た瞬間、何だか全てが分かったような気がしたんです。綺麗だったね。春馬くんの魂は、とても美しかったはず。その美しさで芸能界に向き合っていたら、それはいつか限界が来る。

 書けば書くほど視界がぼやけ、悲しみに引きずり込まれる。ずっと雨は降り止まず、渇きは癒えることがない気持ちにさせられる。 どんなこともいつかは終わります。終わりが少し早かっただけ、そう思おうとしたけれど、どう頑張っても痛みが消えない。

 誰にも消せない痛みを今宵は誰かに預けたい。ずっと泣き続けるわけにはいかないし、泣いても良いけれど、ひとしきり泣いたら立ち上がらねばならない。好きだ、それだけで引き留めちゃだめだよね。

遅かれ早かれ光は届くぜ

 亡くなった時が一番名が知れる時、というのは何だかとても切ない。どうして皆、死を選ぶのか。先行き不透明な社会、頑張っても報われない社会、そして決して透明ではない社会、それが日本という国です。残念ながら、生きていれば報われる国ではない。

 どうにもならないと知った時、人は究極の選択を選ぶのかな。本当は何とかなるはずなんです 。道はひとつではないから。でも、そんなこと皆分かっているよね。分かっていてもどうにもならないんだよね。 寂しいよ。年間三万人弱だっけ?の自殺者がいる日本で、のほほんと幸せに 「賃マン(賃貸マンション)あるから楽やわー。」とかつての同級生のように言える人間なら苦労しないわ。

 私は死の寸前まで行ったことがありましたが、後に死ぬよりも辛い経験をし、いっそ死んだ方がましだという境地に辿り着き、何かが吹っ切れました。今でも、あの時死んでいれば、後の経験は味わわずに済んだのだ、と思うと何とも言えませんが、これもひとつの経験、社会勉強に過ぎない、と思えば大したことない。

 もしかすると、もしかするとですが、このまま生きていくより、今散った方が幸せなのかもしれません。周りから見れば悲痛かもしれませんが、本人にとっては救済だったのかもしれない。私も昔から、というより数年前から「もういいかなー。」と幾度となく思いました。結婚も出産もしないしさ、大した人間じゃないからもう許してくれ、といった感じ。

 「死にたい」とネットで呟くわけでもなく、「助けて」と訴えるわけでもなく、ひっそりと旅立っていく人々。春馬くんの死で思いました。「私は春馬くんの年齢を越えてみせる」と。春馬くんが生きた30年間を決して忘れない。私も頑張って30歳になり、どんな景色を見られるのか、今からとても楽しみ。エイジング、エイジングって年を取れるのはありがたいことだぞバカ野郎! 

言葉に全部は託せなくても

 私たち、また会う日が生き甲斐の悲しいdestinyだね。本当に悲しい。生き甲斐がそれしかなく、次に会える約束だけで生きてきた。これからもそのつもりだけど、何だか心許ない。会いたい人には会えるうちに会い、大好きな人には「大好き」と伝えよ。

 時間は永遠にあるように感じられるかもしれない。けれど、決してそんなことはない。永遠なんてないし、運命なんて知らない。ただ、出会ってしまっただけ。出会ってしまったら、一生を添い遂げる覚悟で忠誠を尽くせ。

 今すぐ会いたい。一目会えたら、もう何もいらない。もう何もいらないのに、それが出来ないもどかしさよ。届くことのないラブレターを書き続け、自分の気持ちにケリをつけようと向き合ってきた。でも、どうにもならないこともあることを知りました。書けば書くほど深みにはまり、簡単には抜け出せなくなっていました。

 そんな私は、時々思い出す映画のワンシーンがあります。岩井俊二監督の「love letter」のクライマックス、図書委員である同姓同名の男女が織り成す淡い恋。柏原君演じる男子学生が、酒井美紀演じる女子学生の似顔絵を図書カードの裏にひっそりと、だけどしっかりと書いていたことが明かされるワンシーン。

 私はこのシーンが大好きで、これこそ、この思いがあれば、何だって出来る気がするんです。私にとっての図書カードは、小学生の頃に好きだった男の子がくれた遊☆戯☆王カード。もうなくしちゃったけど。彼が私の膝の上で寝ていたのか、とにかく彼の顔が近くにありました。その時、彼の耳の周りにふわふわと生えている、たんぽぽの綿毛のような産毛を見たんです。私はそれが堪らなく愛しく感じられ、「今が一番幸せなのかもしれない」と思ったことを覚えています。ませてるー!小学生のくせに!

 肌が触れ合ったり、触れ合わないまでも、耳の綿毛がよく見えたり、そんなことがいつまでも幸せな記憶として残り、私の心を掴んで離さないのです。たんぽぽの綿毛のような耳の周りのふわふわした毛を思う時、二度と戻れない時間への思いが強くなる。

 楳図かずおの漫画『わたしは真悟』で「もう子どもの頃の私たちには会えない」という印象的な台詞があります。惚れた腫れたと騒ぎ、バレンタインデーにチョコレートを買うも、結局一度も渡せなかったね。もう子どもの頃の私たちには永遠に会えない。

 だけど、もう一度会いたいと思えるほどの時を生きたならそれでいい。時間は巻き戻せないからこそ、尊いはず。巻き戻せないからこそ、輝くんだ。切なくも甘く、そして痛いほどの愛がそこに残るなら、なにもいらない。

流した涙は僕の自由

 最近はパイセンの「ヨボセヨ」をエンドレスリピート。MVのキスシーンに憤りながらも「7年も前のキスだし…」と自分を納得させようとしたり、「でもやっぱり許せん!てか本当にしてる?ガッツリしてるか。ハハハ!」と錯乱したり、もう疲れました。

 パイセン、ガッツリとキスをしたり、惜しげもなく肉体美を晒したり、もしや捨て身なんか?捨て身のパイセンなんか?なんて考えていたら泣けてきました。パイセンの話は永遠に出来るけど、最終的には「キスすんな!!」に落ち着くため、生産性がない。ということで皆大好き、ジョンハン青年の話でもしましょう。

 2017年のジョンハン青年はとても色っぽく、私の心を掴んで離しませんでした。「コンサートDVDほちい!」と熟考を重ねた上、DVDプレーヤーも壊れつつあり、画質の面からでもBlu-rayを買うべし、という結論に至りました。その流れでBlu-rayプレーヤーも買う予定でいましたが、なかなか踏ん切りがつかず、結局ズルズルと観られない「セイザネーム」。色っぽいジョンハンの眼差しにノックアウトされたにも関わらず、一向に観られない「セイザネーム」。

 Blu-rayプレーヤーが易々とは入手出来ないことを悟った私は、パイセンのコンサート作品は全てDVDをお買い上げし、ポンコツプレーヤーで何とか再生。ポンコツプレーヤーも一生懸命頑張ってくれています。ただ、「Ode To You」DVDだけは、どう頑張っても再生出来ない。SEVENTEENと縁がないのかなー、なんて考えていたら悲しい気持ちに。全ては片面2層が悪いらしい。

もうこの際、カラオケの鉄人Blu-ray鑑賞コースを予約し、カラオケで鑑賞してやるか!と思わないでもない。ただ、このご時世、カラオケにノコノコ行くのも気が引ける。ジョンハンに会いたい。2017年のジョンハンに会いたい。ただそれだけなのに。眠れない夜と雨の日には、忘れかけていた愛が甦る。

雨が降るから君に会いたい

 立ち竦んでいる暇があったら、単語のひとつでも覚えろ。目が覚めた瞬間から襲ってくる悲しみには、それを凌駕するほどの熱量を持った何かで立ち向かわねばならぬ。今の私にとって、それは勉強に他なりません。資格試験合格に向けた勉強に邁進するのみ。悲しいだ寂しいだ、生きていて欲しかったなんて抜かしている暇があったら勉強しろ。

 その美しさゆえに長くは生きられなかった、ただそれだけのこと。ただそれだけのことなんです。それを私が勝手に浸り、悲しみに酔うが如く立ち止まっているに過ぎない。大好きだった、という思いを胸に進め。その気持ちに嘘偽りはないのだから、胸を張って進め。とても魅力的だったこと、忘れません。早くおばあちゃんになって、全てを忘れたいと思ったこともありました。でも、好きだった気持ちは忘れたくない。

 その気持ちは、私が生きた証だから。確かに恋をして、輝きを放った証だから。納得しなくても良い。腑に落ちなくても良い。全てを分かったような気持ちにならなくても良い。何も分からないけれど、確かに好きだったということ、それだけが真実であり、答えだよね。今日は少し落ち込んだりもしたけれど、誰かを好きになる気持ちは素晴らしい。その気持ちこそ、生きている証ではないか。

 すごく私の性格の悪さが露呈する話をしても良いかい?以前、近所の焼きとん屋へ家族で行きました。私たちのテーブルの近くにおばはん二人組が座り、捲し立てるようにマシンガントークを繰り広げる始末。そんな中、私と母上がメニューをパラパラと見ると、店員のお兄ちゃんが飛んできてくれました。

 しかしおばはんがメニューを見ようが、店員を呼ぼうが、一向にお兄ちゃんは歩み寄らず。挙げ句の果てに、カウンターから「どうぞ~」と注文を取り始めました。歩み寄ってやれよ、と思う反面、そうやって差をつけられる時こそ、生きている実感が得られる。生きていて良かったと心から思う。

  しかし今日の行きつけの焼きとん屋では、お気に入りの店長が小汚いおばあの客と懇意になり、「メラメラ🔥」と怒り心頭。父上は「あんなおばあだし、仕事だからw」と笑いますが、そういうことではない。おばあ相手にムキになるな、と言われてもイヤなんですよ。今まで我が家と適度な距離感でいたのに、いきなりやって来たおばあに見せる親しみが憎らしい。確かにジェラシーを覚えるほどの相手ではありません。でもイヤなんですよ。ムキー!!

 ああ、私って生きてるな。好きになったり、怒り狂ったり、男女に限らずですが、痴情のもつれは厄介だ。あからさまに差をつけられると気分が良い。もっと見せつけたいと欲が出る。おばはんを叩きのめしたいとサディスティックになる。側にいる人よりも、知らない人の視線だけが私を支えているから。悩み、傷つきながらも、結局は愛されたい。ただそれだけ。