まわり道には色気がないじゃん

 カラットちゃん、こんばんは。最近は、宇多田ヒカルの配信曲「Time」と「誰にも言わない」ばかりを永遠に聴いています。唯一無二の感性。彼女は、悲しみの中に浮かぶ、一筋の光を追い求める女性なのかしら。また好きになっちゃった!カラットちゃんも是非!アキバのテラスで聴いていたら、世界が愛しくなりました。閉じられた世界から一歩足を踏み出す必要性も改めて感じさせられ、宇多田ヒカルがまたまた示唆を与えてくれました。崇めていますので…

 彼女は、歌手は今はアーティストと言われ、地位も向上したが、元々は日陰の悲しい存在だったというようなことをインタビューで答えていました。アーティスト以前の歌手という立場、そして芸能人という存在は、私も日陰の存在だと思います。興行ですからね。日々楽しませてもらい、与えられていますが、やはりそこに悲哀を見てしまいます。私は彼らによってこんなに満たされ、励まされているにも関わらず、彼ら自身は果たして満たされているのだろうか、と。目映いライトに照らされ、華やかな舞台に立ち、世界を飛び回る、興行という仕事。その仕事は、歴史的に見ても悲哀を感じさせます。夢を与えるその仕事は、やはりどこか物悲しい。カッコいい!かわいい!ステキ!とだけ言っていられれば幸せなんでしょう。与えられた幸せを甘受すれば良いだけなのかもしれない。でもなかなかそうもいかないよ。

 テレビ局幹部の親戚のおじさんに言われた「絶対に芸能界に入りたいと思ってはいけない。」という一言。中学生の時にそう言われて以来、でもこのおじさんは、彼ら(芸能人)を使い、飯を食っているではないか。身内には決して勧めない芸能界で、未来を夢見る若者を働かせ、幹部の地位に君臨する。その矛盾に気付いてしまったんです。身内には勧めないというのが全てだと思うんです。それが答え。その過酷な芸能界で働く若者に夢ばかり見る私。なんだかとても悲しい。芸能人は、いわば作られた存在であり、商品です。市場価値を高めるためにメスもバンバン入れるし、私たちに見せる顔と、また別の顔があるとも思います。だって芸能人だから。でもそれで良いとも思う。夢を与える立場もなかなかつらいよ。

 網野善彦の『中世の非人と遊女』という本をかじった時、とてもかなしくなっちまったのですが、また読み直そう。興行も出てきたっけな?全ては幻想。まやかしです。そこに救いを見出だすのもひとつの生き方だし、ひっそりと身を引くのもひとつ。金の切れ目が縁の切れ目であることもまた真実。でも私は、一人で生きるより、永久に傷つきたい。