しかし、試験合格という目標しか自分を繋ぎ止める手段がなく、それさえも達成出来なかった今、果たしてこれからも食べ、笑い、眠ることが私に許されるのでしょうか。おそらく、遅かれ早かれ自らの手で全てを終わらせる日が来るのだろう。そんなことを考えていたら、涙が止まらなくなり、資格試験合格というこんなことさえも出来ない自分自身に失望しました。
そして、合格という目標のお陰で何とか踏み止まっていたであろう心がポキッと折れました。0か100かでしか物事を計れない私は、落としどころ、つまりグレーゾーンを見つけるということさえ難しいのです。そして厄介なことに、「こんなことさえも出来ない」とまるで全てが出来て当たり前かのような、自分自身に対しての過信があります。
はっきり言って大したことない、と誰か言ってくれたら楽なのに。心のどこかで私は大したことないのだろう、自分が思うより、ずっと大したことないのだ、ということに気付いていたのかもしれません。でもそのことに向き合うのが怖くて、必死で勉強していたに過ぎません。急がずとも必ず、皆同じところに行くのにさ、何をそんなに生き急いでいるのか。
もっと頑張ればよかった。やれるだけのことはした、とあの時は思えたけれど、振り返ってみるとまだ足りなかったのです。なぜなら結果が全てだから。「受かりました!」と吹くだけ吹いて、しっかり落ちている己の浅はかさに泣きたくなる。それは両親にしか話していないため、全く気にしなくていいし、私が「受かった!」と言う時は経験上落ちている、と母上は笑ってくれますが、私自身がいたたまれないのです。
結果を出さなければ生きている価値がない、との思い込みから早く抜け出したい。これは私の偏った思考が作り出す思い込みと思い上がりに過ぎないのだから。また来年受ければいい?残念ながら、来年を見据えてまた頑張る力は私には残っていません。だから今年に賭けていたのに。こんなことさえも出来ない、と嘆きますが、難易度と実力を弁えてから言えという話かもね。
どう考えても、ボーッと生きている人よりは物事を考えているし、努力もしているという自負があります。だからこそ、合格出来なかった時の失望は大きいし、もっと頑張らなかった自分を鞭で叩きたい。でもさ、その変な頑張り方と、周りよりは頑張っているという気負いで息が詰まりそうだよ。ボーッと生きていることが悪いことではないのかもしれないけれど、皆がボーッとしているからこんな国になったんだよ、とも思う。
でも私はもっとボーッとしなければならない。何もせず、何も生み出さず、ただ風に吹かれていればいいのかもしれない。それが一番難しいけれど。生きているだけで丸儲け、果たしてそうかな?自分で自分を肯定出来ないなら、生きている意味はない。生きていても楽しくないだろう?意味のある生き方をしなければ、という思いが一層強くなってしまいました。
これ以上、頑張ることを頑張るな。だって大したことないのだから。人より出来ないことが多くても気にするな。だってもともと大したことないのだから。自分への期待値が高い分、求めすぎだよ。私は受かってもいないのに「受かりました!」と言うくらいの大バカ者さ。急がずとも必ず、いつかは全て終わります。どうにもならなくなったら、その時また考えようぜ。