everybody finds love in the end.

 命の煌めきを見る時、それと同時に命の儚さを思い知らされます。南池袋公園で寝転がって空を眺めながら、今を生きていること、私たちが経験する今は、決して二度と同じ形では現れないということを噛み締めました。もう作家になっちゃおうかなー。エッセイストになっちゃおうかなー。ポエマー炸裂。一生ポエムを紡いで食べて行けるのなら、それはこの上ない幸せでしょう。いや、仕事になるとしんどいかしら。

 芝生で横になりながらSEVENTEENの「舞い落ちる花びら」を聴いていた私。(スピーカー持参!)音楽を聴きながら、本当は5月のドームツアーで会える予定だったんだ、この曲を東京ドームで聴けるはずだったんだ、と思うとぽろぽろ泣いてしまいました。情緒がピンチ。芝生で泣く女、情緒がピンチ。「僕らは最初で最後の今を生きているんだ」とのフレーズが泣かせる。今しかないんだよ。今を生きることが未来に繋がるんだよ。

 色んなことがありました。ここ数ヶ月、本当に色んなことがありました。私自身の存続危機でもありました。「死にたい」というような積極的な感情ではなく、「もういいかな」という諦めがありました。私がズルズルしている間に春馬が亡くなりました。「舞い落ちる花びら」を聴いていたら、この頃は春馬も生きていたんだ、と思うと戻れない時間が堪らなく残酷に感じられてまた泣きました。

 君は花びらのように散ってしまったのか。まだ30年しか生きていないんだよ。たった30年。「そうか、もう君はいないのか」と思う度に、こんなに耐え難い悲しみを抱える羽目になったことを恨めしく思う。今日も書店で春馬の本が並べられていて、手に取っただけで視界が霞むから、まだしばらくはお預け。あんなに笑っていたのに、心で泣いていたのかい?自ら死を選ぶほど辛く、苦しい道を歩かせてしまって本当にごめんね。

 先日のブログでは「少しずつ受け入れる準備を始められるかもしれない」と書きましたが、今日確信しました。まだ全然だめだと。音楽を聴くだけで涙を流し、空を見つめるだけで耐え難い寂しさに襲われるんだもの。無理して笑わせていたのかな。それがいつしか習慣化し、悲しくても笑えるようになってしまったのかな。私なんかがどうにか出来るはずもないのに、何とかしたかったと思い悩むのはお門違いだと思います。でも、何とかしたかった。

 眠る前にブログを書き、気持ちを吐き出して眠りにつく。泣きながら書く日もあれば、朝起きてうっすら泣いている日もあり、私と涙は切っても切れない関係になりました。心の健康を考えた時、今の状態は決して良好とは言えないでしょう。でも、もはやそんなことはどうでもよくなりました。周りが日常に埋没し、少しずつ彼を忘れていっても、私は悲しみに浸り続けようとさえ思うほどです。

 空を見ていると、あらゆることが目の前から消えていく感覚があります。今、私が生きていることも、彼が亡くなったことも、嘘も本当も全てが曖昧になり、やがては一つに辿り着くのだろう、と俯瞰できるようになります。悲しい時は、空を見上げよう。青空でもいい。星空でもいい。そこに君を見つけて、駆け寄りたい衝動を抑えて、じっと見つめるから。今日も一日幸せに。