あの場所に帰れなくなっても

 「受け入れることが愛なら許しってなに?」という宇多田ヒカルの歌詞を考えていました。全てを受け入れるということ、極端なその選択を許すということ、それが出来ればこんなに苦悩しません。夜になると悲しくて、全ては生きていればこそなんだぞ、春馬よ、と語りかけたくてブログへ来ました。

 日常を忙しく、考えることが増えれば増えるほど、私の脳内を占める春馬の影は薄くなるのでしょう。悲しいことなんて全て忘れさせて欲しい。亡くなった人のことをいつまでも考え続け、前になんか進みたくないと泣き明かしても、悲しいかな、春馬は私の恋人ではありません。まるで恋人を失ったかのように悲嘆に暮れる私は、一体どういうつもりなのでしょうか。

 「楽しいことをしよう。」とある人は言いました。楽しいこと、それはひたすら音楽を聴きながら本を読むことであり、時々気晴らしに買い物をすることでもあります。でも、楽しいだけでも限界が来ます。日々が苦しいからこそ、たまの休日を心から楽しめるものではないの?毎日楽しいことだけをしていて本当に良いのだろうか、そう思った日もあります。

 そして、今ようやく分かりました。「楽しいこと」とは、一人で成し遂げるも勿論良しですが、残念ながら一人では見られない景色もあるのだということを。「自由でも余裕でも一人じゃ空しいわ」と宇多田ヒカルも言うように、自分だけを見つめていても埒が明かないんです。長い間内省を繰り返していた私は、いつしか考え抜くことが最良の選択だと信じて疑いませんでした。

 考え抜いた先に答えがあるという前提にがんじがらめになっていました。でもね、それは違うよお嬢さん。全ての終わりに愛があるなら何も怖くない、ということを一度信じてみてもいい。信じた先に傷つくのが怖いなら、とことん信じてみたらいいじゃん。後戻りの出来ないところまで信じてみたらいいじゃん。

 ここ最近のテーマは「自分の感受性くらい自分で守れ」ということです。傷つくことを恐れて守りに入った私は、自分の感受性の高まりを放棄してしまったのかもしれない。「これ以上踏み込んだら危ない」という持ち前の危機管理能力を発揮しすぎてしまったのかもしれない。全ては生きていればこそなんだ。悲しい時はしっかり悲しんで、嬉しい時はしっかり喜んで、美味しいものを沢山食べて、ぐっすり眠ろう。

 悲しいけど、亡くなった人がこの世で一番好きな人になってしまったね。でも全ては生きていればこそなんだ。春馬はきっと、もう脳が考えることを止めてしまうくらい沢山考えたんだよね。その現実を受け止めきれなくて、早4ヶ月が過ぎました。まだたった4ヶ月か。これから街にクリスマスキャロルが流れ始めるよ。雪もチラチラと降るだろう。君がいない世界は、今日も回るんだ。