一件落着。「もうだめかもしれない」と感じた時は、潔く身を引くことだね。一歩引いてみると、新しい景色が見えることもあるから。いくつもの出会いと別れを振り返って思うことは、来る者拒まず、去る者追わず、というスタンスで生きるべし、ということ。
そして悲しい過去は抱き締めながら生きるか、引き出しの中にそっとしまい、時々取り出して自分を労るか、それくらいしかない気がします。自らを見つめ続けても、見える景色は変わりません。関心のベクトルを己に向け続けるのではなく、他者に見出だすべし。
そのためには、内に向かった意識を外へ向ける努力が必要なようです。内省的なのは結構だけど、それだけじゃ疲れちゃうよ。カラットちゃん、ちょっと愚痴っても良いかしら?
私の中高時代の後輩がね、報道番組に記者として出演したことを恩師のSNSで知りました。恩師は以前にもレポーターとして活動する教え子のことをSNSに載せていて「そんなにマスコミが好きか?」と毒づいてしまったというわけ。
テレビで活躍する人間なんて一握りだし、前に前に出る性格だから出ているだけだとも思います。数多の生徒を送り出し、その中でマスコミ関係に就いた教え子を持て囃す。そんなことをされたら、圧倒的多数のそれ以外の教え子たちの気持ちは?
皆が皆、卒業後は順風満帆な道を歩んでいるわけではありません。時に迷い、もがき、苦しみながら道を見つける子達も多いはず。どうして教師という立場にありながら、華やかな(華やかに見える)世界にしか目を向けないのか。
テレビに出ている、それがなんぼのもんじゃい!とも思います。圧倒的多数の地道に生きている生徒たちに思いを馳せられないのか。残念ながら、想像力が乏しいのだと失望しました。両親に言わせると「ミーハー」の一言に尽きるらしいですわ。
もし教え子が報道番組に出演したことがそんなに嬉しいなら、その子個人宛にメッセージを送り、激励すれば良いだけのことでは?あの投稿を見て、私のようにどこか寂しい思いをした生徒もいると思います。少なくとも、私は寂しかったんだ。
皆が皆、俗にいう成功者のポジションを勝ち得るわけではありません。私は大学卒業後に派手に傷つき、自らは社会からこぼれ落ちた存在だと思っています。今再び、社会と関わりたいと奮起しましたが、教師はただのミーハーじゃ困るんですよ。
躓きながらも再び立ち上がろうとする教え子たちに、暖かい眼差しを注ぎ続けてくれる存在であって欲しい。私が望みすぎか?彼女はただ「あ!教え子がテレビに出てる!すごーい!」との思いだけで言葉を綴ったに過ぎないと思います。
でもその影で寂しい思いをした教え子の気持ちまでは考えられないのかな。悩みなんてひとつの通過点であり、大きすぎるブレスレットのようにするり、といつかは抜け出せます。でも渦中にいる人間には、その「いつか」を待てる余裕はない。
永遠に「いつか」が来ない気さえします。迷える子どもたちに光を当てるのが教師ではないのか?ただのミーハーじゃ困るんですよ!私の望みすぎかもしれないけれど、彼女が大好きだからこそ、ここまで腹立たしいのかもしれません。
そんなそそっかしさ?もご愛嬌、と見逃してやるかね?期待をすると裏切られる。でも、誰にも期待しないのも寂しい。この寂しさは誰にも言わない。