繊細な心を持ち、逃げ場がなかった人間は、自ら死を選ぶしかないのでしょうか。あんまりだよ。まだ見ぬ息子の名前は「春馬」もいいなー、なんて考えていた私は、どうしたら良いのでしょうか。
本当は彼を責めたい。なぜその選択を選んだのか。本当にそれしかなかったのか。でも、それしかなかったから、こうなったのでしょう。逃げられたら良かった。窮屈でやりきれないなら、逃げられたら良かったね。
どうしてそれが出来なかったんだろう。一生懸命言葉を探して、真摯に生きていたように見えたよ。だからこそ、すり減っちゃったのかもしれないね。ここで生きられないなら死ぬしかない、という思考に支配されてしまうのは、悲しいけれどよく分かります。
でも、本当はそんなことはないんです。農業させてあげたかったよ。それが願いならば、叶えさせてあげたかったよ。芸能界から逃げさせてあげたかった。誰がこんな結末を予想したでしょうか。もうこれで苦しまなくていい。長い苦しみから解放されたのかもしれない。
でも、息子の名前は「春馬」にしたいと思っていた私は、置いてきぼりですよ、春馬くん。私が悲しいから生きていて欲しかった。これは究極のエゴかもしれませんね。でもそれで良いのかもしれません。
死を選ぶほど苦しかったのなら、今は楽になれているのかな。そう思わなければ、やりきれません。この生きづらい世の中でひっそりと心を病み、悲しい夜を過ごしている人は、実は想像以上に多いと思います。
常に世間の目に晒される芸能界に身を置く人間は、相当図太くなければ務まりません。私はこの世が恨めしい。春馬くんが生きることを諦めさせたこの世が憎い。
でもこの怒りをどこにもぶつけようがない。そして会ったこともない芸能人の死にここまで動揺し、心が抉られるとは思いもしなかった。彼には会ったことがないけれど、もう二度と会えないんだね。死んじゃうってそういうことだから。
そんな私は、今日は気分転換に近所の公園でうたた寝。東京は久しぶりの快晴で、公園では子どもたちがはしゃぎ、水鉄砲を片手に汗だくで駆け回っていました。そんな幸せな光景を前にひとり訃報を引きずる私。
でも全ては生きていればこそ。しっかり悲しまなくちゃ。春馬くん、春馬ってとても良い名前だね。