もう何も観たくないし、聞きたくないよ。全ての情報を遮断したい。7月18日のあの日から、実は心が壊れていたことに気付かず、気付かない振りをしながら過ごしてきたように思います。春馬くん、もう笑わないでいい。無理して笑わなくていいんだよ。
私も元気な振りをするのが疲れました。こんなに悲しいのに、何ともない振りはどう頑張っても出来そうにない。彼が出演していたNHKの番組で、ワイプに映る真剣な眼差しが忘れられない。もっと気を抜いてもいいのに。
テキトーに、とは言わないけれど、そんなに食い入るように観なくてもいいんだよ、ま、そんなところが好きなんだけど、なんて思っていたら、こんな結末を迎えてしまいました。 第一報を聞いた時、「取り返しのつかないことになった」と頭が真っ白になったことを思い出します。
守ってあげられなかった、という後悔も波のように押し寄せて来て、途方に暮れたまま、パイセンにのめり込みました。守れなかった、と私が思うのも変な話でしょうか。「納得しなくてもいいし、受け入れようとしなくてもいい。」と言ってくれたその人は、泣きじゃくる私に優しくそう話してくれました。
先生ももしかしたら泣いていたかもね。いつになく鼻を啜っていたから。私が余りにも泣くので、困らせたかもしれません。 「悲しむのはいいけれど、日常生活に支障を来してはいけないよ。」と優しく、穏やかに話す姿にまた泣けてしまいました。
悲しいけれど、日常生活がままならなくなるまで泣き明かしていたのは事実です。勉強をしていても、すぐにテキストが涙で滲み、外出先でもぽろぽろ涙を流す私は、明らかに限界を迎えていました。どんなに悲しくても、寂しくても朝は来るし、食事は取らなきゃいけないし、眠らなければならない。
当たり前の生活がままならなくなった今、失われたものの大きさに改めて直面しています。夜も満足に眠れず、彼の最後の時のことばかり考え続けた私は、いつしか生きていくことが難しく感じられるようになりました。
これからも生きていかなければならない重圧に押し潰されそうなのは事実。私自身のブログを読み返していたら、春馬くんが亡くなる前日に、私はブログで「もうこれ以上(生きなくても)いいかな。」というようなことを書いていました。私がそんな甘ったれたことを抜かしている翌日に、彼は亡くなりました。
おい、甘ったれるな。おい、つべこべ抜かすな。黙って生きろバカ野郎、と己を張り倒したくて、そんな己が憎らしくてまた泣きました。泣けども泣けども、一向に枯れることのない涙を前に、一体いつまで泣き続ければ良いのでしょうか。
会いたいと願えば、飛んで来てくれるのでしょうか。どんなに願っても叶わないことがあると知った今、全てが陳腐に思えるよ。少しずつ立ち直ろうとした矢先、また思いがけない訃報が飛び込み、心が追いつかない。忘れようとしていた悲しみが呼び起こされ、私ももうだめかもしれない。
あらゆることが気に障るし、あらゆることから色が失われたんです。春馬くんの報道があったあの日から、心のどこかがポキッと折れた音が聞こえた気がします。その音と向き合わないようにパイセンにひた走り、何もかも諦めそうな心を繋ぎ止めていたのかな。
もう何も聞きたくない。これ以上訃報を聞きたくないよ。皆は平気なんだろうか。私だけがこんなに固執しているんだろうか。前になんか進みたくないと泣き明かして、意地になっているんだろうか。
先日、家族で行きつけの居酒屋へ行きました。そこのBGMは、毎回懐かしのJ-POPカバーなんです。往年のヒットメドレーを聴いているとどうしようもなく悲しくなり、またまたぽろぽろと泣いてしまいました。秋はだめだねえ。
端から見れば、私はただのおセンチか、情緒不安定です。確かにあの日から情緒が安定せず、夜も満足に眠れず、泣いてばかりなんだ。ハンサムだった。穏やかで、精悍で、ハンサムだったね。
あんなに笑っていたのに、心で泣いていたのかと思うとさ、胸が張り裂けそうになるんだ。あんなに笑わなくても良かったんだよ。笑いたくない時は、ムスッと、ブスッとしても良かったんだよ。
それが出来なかったから苦しかっただろうね。何も分からずに本当にごめんね。世界との境界線が曖昧で、全てを自分事のように受け止めてしまう私は、まるで家族や恋人を失ったかのような嘆きようです。
彼はあくまでもブラウン管の向こう側の人であり、私の恋人でも何でもありません。それなのに、こんなにも耐え難い苦しみに飲み込まれるのはなぜ。それはおそらく、彼が屈託なく笑うからでしょう。楽しそうに、コロコロと笑うからでしょう。
笑顔の奥に、悲しみや苦しみを抱えていたことを、あの微笑みで打ち消していたであろう、ということに打ちのめされるのです。君がくれた情熱を感じながら、季節が移ろい行くように、私の心も移ろい行きますように。
溢れる涙を堪えられない私を一体どうしてくれるんだ、というやり場のない怒りもあります。皆、あっけなく死んじゃうんだ。こんな世界に私を残して、皆、あっけなく散ってしまうんだ。守れなくてごめんね、と永遠に悲しみの中にいようとする私は、どう足掻いても、あの日以前の明るさではいられなくなりました。
気が付くと涙が頬を伝い、視界がぼやけ、生きることの悲しみに飲み込まれそうになります。私が「もういいかな」なんて甘えたことを抜かしていた間に、春馬くんは決断したんだね。
「強い女性だと思っていた」とか「弱くてもいい」とか、皆勝手なことを言うよね。強いとか弱いとか、その尺度が人を苦しめていることに気付けないのか、気付かないのか。そんなやり場のない怒りと憤りが私を突き動かしています。
私が隣にいたかったと思うのは烏滸がましいよね。私がいつもそばにいたかったと願うのは、思い上がりに過ぎないよね。でも、隣にいたかったよ。何ともならないと思ってしまうことも、何とかなると思えるように、隣にいたかったよ。
こんなに好きだった人が下した決断。それを受け入れろというのは、余りにも酷な気がします。心が悲鳴を上げているのに、その悲鳴に気付かない振りをしたままパイセンに逃避し、逃げ切れるとでも思ったのか。もう限界だよ。もうお手上げだよ。
最後の姿が頭から離れず、胸がしくしく痛んでも、世の中にはどうにもならないことがある、と君は教えてくれたね。そんな悲しいことを君に教わりたくなかった。どうにもならないことをどうにかするのではなく、実際、夢ばかり見ていたと気付いた時、その時初めて全てを受け入れられるのかもしれないね。
自死という結果にばかり囚われ、そんなに苦しかったのに、何も分からなかったという後悔に苛まれ、残された側は苦しみます。でも、一番苦しかったのは、本人に他なりません。私がどんなに泣いても彼はもういない、という事実がより一層、悲壮感と共に私に迫ります。
きっと、亡くなった人というのは、誰よりも真摯に生きていた、あるいは生きたかったのだと思います。その真面目さや真剣さゆえに、自分を許すことが出来なかったのかもしれません。それを「強い」だの「弱い」だの、軽々しく言ってのけることがどれだけ無責任か分かるか?
相当だったんだ。相当苦しかったんだ。逃げられなかったんだよ。かわいそうなことをした。一人寂しく逝かせてしまった。そんな思いが私の中を駆け巡り、どうにもなりません。
平気で彼を話題に出来る人も信じられない。私は何も話したくもないし、聞きたくもないのに耳に入るため、イヤホンで耳を塞ぎ、パイセンへ逃避。遮断するノイズ。無意味なナビゲーション。お願いだから、そばにいて欲しいよ。
どうか悲しみに足元を持って行かれませんように。ぽろぽろ泣いてばかりで、秋の気配を感じ取りそびれないように、やがては冬が来て、寒さを越えると、春の桜が咲くのを見届けられますように。