しかし、そんな人は多分想像以上に多いのでしょう。皆、外でめそめそ泣けないものね。顔で笑って、心で泣いているのでしょう。春馬、「銀魂2」とても良い映画でした。春馬が主役だね。もう無理して笑わなくていいんだよ。そう思うと彼を苦しめてきたであろう、あらゆることからやっと解放されたであろうことが、唯一の私の救いに繋がるのです。
そうでも思わないと耐えられないから。大好きな人をこんな形で失い、正気を保てと言うのか。あの日、君が命を絶ったあの日、君はきっと泣いていただろう。部屋で一人、涙を流していたのではないかと思うと、耐え難い悲しみに襲われる。
亡くなった人のことばかり考え続けても、どうにもならないとも思います。もう二度と会えないんだということも分かります。でも、やはり受け止めきれないのです。春馬耐性をつける、という訳の分からない理由から「銀魂2」を観てしまったばかりに嗚咽してしまった私は、やはりこの痛みは手強いことを悟るのです。
春馬、春馬ってさ、もう二度と会えないんだよ。もういないんだよ。郷ひろみとのデュエットで歌い方が爺臭い、と笑っていたあの頃へは、誰も戻ることが出来ません。あんたが私の時を止めたんだよ、と憎んでもそれだけ大好きだったことを突き付けられたに過ぎません。
夜、ベッドの中でも春馬のことを考え「春馬」と一人呟き、結局涙してしまう日々は、なかなか辛いものがある。しかし、きっとこんな風になっている人は、私だけではないのでしょう。私ばかりが取り残されているような気がしても、きっとそんなことはないのでしょう。
だから色々言われているのでしょう。私にはさっぱり分かりませんが。春馬、あんたはそれはそれは立派な役者で、茶目っ気もあり、実に魅力的だったよ。私はそのことを覚えておかなければならず、だからこそ、命が尽きるまで、電池が切れるまで動き続ける所存。
春馬がいかに素敵だったかを、まだ見ぬ息子か娘に伝えなければならないから頑張るつもり。息子の名前は「春馬」にすると決めているけど、未来の旦那が渋りそうだね。それで揉めてあえなく離婚し、無事に「春馬」を育てる、という一連の流れはシミュレーションしてますよ。
中高時代の同級生で、同じ大学に進学した友人と、大学生の頃に井の頭動物園へ行きました。モルモットともふもふ触れ合い、実に楽しい時間を過ごした私たち。その時、ふと友人が「ちいちゃん(私)は、絶対に良いお母さんになるね。」と静かに言いました。
当時の私はひねくれているのか、どうしても自分が母親になれるとは思えず「えへへ。」とお茶を濁しました。私のように母親になることが想像できず、勝手に未来に怖じ気づくカラットちゃんはいらっしゃいますか?
父親になるのも母親になるのも、資格なんか要らないし、なろうと思えばなれる時もあるし、なりたくなくてもなってしまうこともあるでしょう。子どもは親を選べないため、親はそのことに自覚的であるべきだとは思います。
でも、春馬がいなくなった今、私は春馬Jr.がこの世にいないことが悲しくて堪りません。この人の子どもが存在しない、という事実に戦慄してしまうのです。春馬、あんたも良いお父さんになれたはずや。愛情深い、良いお父さんになれたはずや。
それならば、春馬の果たせなかった夢、いや、春馬自身が春馬Jr.を欲していたかはさておき、私が私自身のJr.を産むしかないとの結論に至りました。え?飛躍しすぎ?確かに飛躍しすぎかも知れませんが、私自身のJr.に春馬がいかにハンサムだったかを語り継ぎたいのです。
そして、春馬が私たちの心の中で生き続けることに一筋の夢を見たいのです。幸か不幸か恋愛経験のない私は、 あらゆることを頭の中でこねくり回し、勝手に難しく考え、袋小路に陥っていました。春馬亡き今、春馬Jr.の誕生は未来永劫不可能となり、その事実に胸が張り裂けそうになるのです。
そう考えた時、命の誕生の逞しさに泣けてくるのです。春馬、春馬と我ながらうるさいですね。あれから色んなことを考えました。いかに春馬のことが好きだったのか、一日中考えました。そして、やはり私は電池が切れるまで、その時が来るまで頑張ろうとの結論に至りました。
春馬の電池はもう限界だったこともよく分かります。電池にはそれぞれ寿命があるから。だから春馬、もう頑張りなさんな。後のことは私に任せて、ゆっくりおやすみ。瞑ったまま、二度と開けることのないその魅力的な瞳。もう何も見なくていい。何も考えなくていいんだよ。だから私が天寿を全うしたら迎えに来てね。