さて、最近は気分の浮き沈みが激しいのだ。「楽しいこと」をすることが許されている私ですが、楽しいことって何?確かに音楽を聴いたり、映画を観たり、気晴らしに買い物をしたりさ、好きなことだけをさせてもらっています。しがらみはないから楽だけど、その分張り合いもないよ。
気晴らしに近所のカフェへ勉強に出向くも、ペチャクチャうるさい店員に囲まれて辟易する日々よ!もれなく全員頭が悪い。散れ!と怒りまくるんだけど、行くところがないからまたのこのこ行っちゃう。
そして辞めるらしい店員(バカ)に「いつもありがとうございます。」と2回も言われて「こんなにバカなのに…そういうことは言えるんだ…」と何とも言えない気持ちに。
「張り合いがないなー。」と嘆くならもっと人間関係を築く努力をするべきだし、暇をもて余しているならもっと真剣に勉強すべきよね。「楽しいこと」を絞り出さなければならない日々もなかなか苦痛といったところでしょうか。
贅沢かね?贅沢な悩みかね。もっとあくせく足掻いてみるか。
昔、とある小学校でアルバイトをしていた際、子ども達に「先生、なんで勉強しなきゃいけないの?」とよく聞かれました。私は悩んだ挙げ句「自分の可能性を閉ざさないため」というようなことを話しました。
将来就きたい職業に出会っても、学歴で足切りされるようなことは勿体ない。「今頑張れば未来は少しずつ開けるかも。」というようなことも言いました。果たしてその答えが正しかったのかどうかは分かりませんが、足掻いてみることは誰だって出来ると思うのです。
ある女の子が「好きなことを仕事にするのって楽しい?先生みたいな女の人になりたい。」と言ってくれた時、彼らにとって私は好きなことを仕事にしている人間に見えたんだなあ、と感慨深いものがありました。
何が言いたいのかと言うと、今の私はただの消費者、客でしかありません。消費者に売る側がサービスするのは資本主義の基本だし、いやなら買わなければいいだけのこと。それをこねくりまわしているだけのことなのだ。
ただのサービスに勝手に深読みしてヒーヒー騒いだり、喜んだり落ち込んだり、ラジバンダリ…ただの消費者でしかない今の私の姿は、当時のあの小学校の生徒達には見せられないほど、寂しいものなのです。憐れでいたたまれないほど切ないナオンに成り下がってしまったのです!(卑下しすぎ?)
「私のような女の人になりたい。」と言ってくれた彼女が理想とするようなレディではもはやない!という現実がより一層悲しくさせます。高校の卒業式にて、「ちいちゃん(私)のお陰で娘は楽しいクラスだった。」と大人しい同級生のお母さん×2に言われたような、誇り高き素敵なレディではもはやない!ということも付け加えさせて下さい。
あんなにきらびやかな中高六年間が幻のようです。大人しい子達が賑やかな子達に気を遣わないでいられるような、和やかなクラス運営に心血を注いだ甲斐があったわ。
いや、学生がクラス運営すなって?角刈りが仕切んなやって?(ジャルジャルのネタ)そこまで心血を注いだ気もありませんが、結果として報われていたのかもしれません。もはやその誇り高き精神を発揮できる気がしない。
今はただハングル検定の合格を目指して何となくカフェに通い、何となくぶちギレ、何となくまた通うという悲しい日々よ。私のような女の人になりたいってあんた、泣かせることを言ってくれるじゃない。
こんな大したことない私のようなナオンにそんな優しいことを…ウッウッ…と泣きたい夜です。やっぱり集団を恐れず一歩踏み出すこと、人の中にいてこそ輝く可能性を秘めたる私というものを信じてみたくなった春の日です。