彼女たちは写真を撮るためにピクニックをするし、カフェへ行きます。(断言)それってなんか虚しくない?一緒に行ってる子も友達と言いつつ、ただのカメラマンやろ?と邪推しちまうぜ。何なん?映え、映えってうるさいわ!
はあ、疲れた。別に家だって特段おしゃれに映えてなくたっていいわけですよ。自分が寛げるようにこざっぱりしてれば良いじゃん。私は自分のお部屋が大好き。自分の好きなものを細々と飾って、定期的に埃を払う瞬間も好きよ。
文句ばかり言っていますが、日常系アカウントに触発されて、お部屋を韓国インテリアにまとめようとした過去もあります。でも出来ませんでした。借り物みたいな部屋になる気がしてさ。それは彼女たちの映えた部屋であり、私の部屋ではありません。
そんなに映えなくてもいいから、居心地を良くしようと決意。好きなものを散りばめました。好きなものを散りばめると、小さな部屋の至るところに心踊るスポットが誕生。これで良かったんだと心から思いました。私はとあるアルファツイッタラーのおばさんのお部屋を見るのが好きでした。
特段映えてるわけではないけど、彼女の好きなものに囲まれた空間が好きでした。皆、同じような部屋である必要がどこにあろう。皆、同じようなものを飾ることの不自然さ、不気味さにハッとしました。
だって私たちは唯一の存在であり、唯一の感性を持ち合わせているはず。それを画一的な流行にはめる必要はどこにもないのです。先日訪ねた両国のちゃんこ屋さんで買った箸置きは、しっかり部屋のお気に入りスポットに鎮座。私の中では映えてます。映えまくっています。
要するに、人生は自分の中で映えている人や場所、そしてものを増やす、長い長い旅であるのだということ。この自分の中で映えている、という感覚が大切だと思います。「これ、映えてるでしょう?」と自信満々に提示されても寒いだけさ。
私の映えと彼女たちの映えは違うし、違って当たり前なんです。それなのに映えという感覚は、今や画一的な様相を呈しています。ま、それがインターネットというやつですわな。全て虚像です。虚像だと分かった上で楽しめば良いし、分かった上で転がされていれば良いんです。
私が彼女たちに嘘臭さを感じるのは、写真のためだけにそこに出向き、消費しているように見えるからだと思います。別に良いじゃんと言われそうだけど、消費の仕方が薄っぺらく感じてしまってのう。
どれだけ自分が美人風に見えるのかに躍起になっている節もあるしさ。まずは目を出せ。話はそれからだ。雰囲気なんていくらでも誤魔化せるんじゃ!とブヒブヒ怒りながらも見てしまうのも悲しいね。
インターネットは全てまやかしであり、勿論私だって知らず知らずのうちに演出しているのかもしれません。私も雰囲気美人を演出したいけど、どう頑張ってもおばショット全開なので自粛。友達と言いつつ、ただのカメラマンに過ぎない関係性なんていらないね。