Crying Like A Child

沢山考えて、傷ついてもいいからまた立ち上がりたい。人の心は移ろいゆくものだけど、決して変わらないものもあるんじゃないかな。ずっと好きだった人のことを忘れられないのは、忘れたくないからなのかもしれないね。最近、よく昔のことを思い出します。

 
小学校高学年の頃、近所の公園で雨宿りをしていた私たち女子グループ。屋根のある小屋のようなところで休んでいたら、男の子数名が合流しました。すると、私が好きだった男の子が小屋の梁にぶら下がり、ベンチに座る私を両足で挟んでふざけ始めました。その時は本当に幸せだったな。(キモいかしら!?)
 
次第に私と仲の良かった女の子が、その様子を見て照れ始めました。そして彼らが帰った後、彼女に「ちいちゃん(私)のこと、めっちゃ好きなんやな!」と言われた時のことを昨日のように思い出します。
 
私が好きだった男の子は、今思えば私に触れてくることが多かった気がします。例えば、廊下に寄りかかる私にもたれ掛かって来たり、ラジバンダリ。28年間生きてきて、後にも先にもそんなに触れられた経験がないとは何事!?
 
彼の耳に生えるほわほわとした白い産毛が忘れられない私は、この先もずっとこの思いを暖めながら生きるしかないのでしょうか。好きな人に触れられる時、それはこの上ない幸福でしょう。何気ないタッチが忘れられず、このザマよ!
 
私たちはませたがきんちょだったに違いない。手を握ったり、そんなストレートな接触ではなく、何となく切なくなるような触れ合いを繰り返していたように思います。でも結局結ばれることはなく、離れ離れになりましたね。
 
彼は時々目が暗い時があり、悲しいことが沢山あったのかしらと思っていました。以前も書きましたが、彼は小学一年生の時に私とトラブルを起こし、両親は快く思っていません。祝福されない恋というのもなかなか辛いわね。
 
カラット諸君は、周りから歓迎されるような恋をして下さいな。彼が「弱いからいらん。」とくれた遊☆戯☆王ガードを随分前に捨てました。それは、私が亡くなったら棺に入れて欲しいくらい大切なものだったと今なら分かります。
 
なぜこんなに昔のことばかりを鮮明に思い出すのでしょうか。それはきっと、今が不完全燃焼だからに他なりません。もっと切磋琢磨して、恋をして、という充足感が得られない今、「あの頃のように、私を足で挟んでくれる人は誰もいない。」という寂しさがより一層募ります。
 
足で挟まれたいって何なん?変態やん。(許して)彼の弟も可愛がっていた私は、弟のスキンシップの多さにも応えていました。例えばブランコに乗る私の膝の上に乗って来たりね。今考えると、彼らは寂しかったんだと思います。
 
お母さんの愛を誰よりも欲していたのだと思います。抱き締めたり、抱き締められたりといった、母親の肌の温もりが足りなかったのかな。今なら私が沢山抱き締めてあげられるのに。いかんせん、私たちは幼すぎたね。小学生には早すぎたのかね。出会ったのが早すぎたのだと思います。
 
あんなに好きだったのに告白することも、されることもなく別れてしまいました。彼が暗い目をする時、もっと話を聞いてあげればよかった。父上がたまに「目が暗いのはだめだ。」と言う時、彼のことを言っているのかなーと思ってしまいます。
 
なんとなく責められているような気がして、肩身が狭くなっちゃうね。彼の瞳に輝きが感じられない時、 私はとても切なくなりました。抱き締めてあげたかったけど、出来ませんでした。
 
あの時抱き締めていたら、何か変わったのかな。「大丈夫だよ。」と言っていれば、今頃彼は隣にいたのでしょうか。結局、彼しか好きではない私に春なんて来るはずもなく、時々無性に泣けてきます。
 
「もう何年前の話だい?囚われたままだね。」と宇多田ヒカルも歌っていますが、まさにそう。何年前の話なん?「好きやで。」と言わなかったのか、言えなかったのか、どちらにせよ浅い夢だから胸を離れません。
 
梁にぶら下がり、足で私を挟む彼の笑顔が可愛かったな。お互いあの頃が一番幸せだったとしたら、それはそれで寂しすぎる。どうか君の人生に光あれ。私が道を照らせないのが悲しいね。年をとっても忘れられない人よ。