いつまでも側にはいられない

「約束は今度会えた時に」という台詞、好きだな。大好きだな。と改めて宇多田ヒカルの言葉の選び方に感激しています。言葉を紡ぐには、言葉を知らなければなりません。言葉を知るためには、言葉に溢れた空間に身を置かなければなりません。

そう考えると、読書は手っ取り早く語彙を増やすための最強の道具ですね。最近の私のブログを読み返していると、「あれ?私、また頭良くなってないか?」と自惚れることが多々あります。初期の頃と比べると、圧倒的に文章のテンポが良くなっているように思います。

それはおそらく書き続けてきたからこそ分かることでしょうし、その間に読書量も増えました。中高生の時は周りの環境にも恵まれ、思ったことを素直に言葉に出来ていた気がします。何を言っても周りがおおらかなので、許されていたのかもしれません。

しかし大学生になり、久々の男の子との対面。うーん、思ったことの半分も言えない臆病でつまらない学生になってしまったようでした。その時、中高時代の恩師からブログを書くことを勧められ、素直なので早速はてなブログを開設しました。

素直なのでね!中高6年間を女子高で過ごした私は「文系ちゃん」というある種のお墨付きを貰い、教師からも生徒からも大切にしてもらったという思いがあります。しかし今ではこのザマ。悲しいー!

大学生の頃、ちょうどシューカツも後半戦に差し掛かった時に、中高時代の友人が私を訪ねて来ました。私はシューカツから早々に退き、もはや死にかけの頃ですね。彼女は東京で企業の最終面接を終え、その足で私に会いに来ました。

片や最終面接を終えた者、片やシューカツで早々に挫折した者の久しぶりの対面は、想像以上に苦しかったです。学生時代の自負があるため、軽々と弱った姿を見せられず、明るく振る舞いました。

振る舞いながらも、やはり楽しくありませんでした。その姿は相当痛々しかっただろうね。最終面接を受けたと言っても、内定はまだ貰っていない段階の友人を前に「もし落ちたらどうするんや?」という不安が過りましたが、彼女にはそんな様子は見られませんでした。

「弱った姿は見せられない」だったり「色々な面においてぶっちぎりで走ってきた」とい自意識が私をややこしく、複雑にさせていることもまた事実。彼女の健闘を祈りながら別れました。

初めて飛び込むシューカツというシステムの中で、最終面接まで漕ぎ着けた努力は素晴らしいと思います。私には初めから無理でした。初めての敗北感や挫折、そして知らない面接官相手に自分の話を得意気にペラペラ話せるわけないだろうが!という勝ち気?な姿勢。

全てが上手く回らなくなり、そこから私の行き先に暗雲が立ち込めました。暗雲が立ち込めたか?と思ったら、割とすぐに地獄を見ました。そんな時に救われたのがブログでした。昔に比べて自己表現が下手になった気がしたので、文章で解放させる作戦なり。

ま、昔は昔で恩師から「人に比べて引きすぎる」と指摘されていたので、元々ヤバいのかね。「人が一歩引くところで、三歩引いちゃうのが文系ちゃん」と言われていた私が「自分が!自分が!」のシューカツで戦えるはずはありませんよね。

文章ではいくらキレても大丈夫だし、だいたひかるは少し黙れば良いと思うということも遠慮なく書ける。少しずつ元気になりました。そしてジョンハン青年に出会い、完全復活!文章もどんどん研ぎ澄まされてきた気がします。

何が言いたいのかと言うと、惰性でも続けていれば、何か見えてくるかもよ?ということです。私にはシューカツを続ける根性がありませんでした。でも、ブログは細々と続けられました。書くことで救われたんです。

韓国のエッセイコンテストで初めて作品賞を貰った時、ようやく結果が見えたように思います。だからといって「エッセイストになるぜよ!」というわけでもなく、淡々と続けていこうという作戦です。

文章は書けば書くほど上達します。本も読めば読むほど頭が良くなります。頭が良くなりすぎたか?という不安も少々ありますが、それはそれで、いつか何かのお役に立つかもしれないし、体力は温存させておくのが吉。友人の健闘はそっと祈るのが吉だね。