あのー、また暗い話題で恐縮なのですが、またまた三浦春馬君のことを思い出しています。あんなに笑っていたのに、心では泣いていたんだろう、というところに思いを馳せると、いたたまれないのです。数日前から再び春馬が頭を掠めるようになっているので、ちょっぴり引きずられているのかも。
亡くなった方が往々にして周りから言われる言葉は「ストイックだった。」というものが多い気がします。真面目で責任感が強いからこそ、答えが出るまで問題に向き合い続けるのでしょう。不真面目で無責任なら、延々と考え込むこともなく、ましてや自分が至らないのではないかという点に立ち返ることもなく、周りの文句ばかり言って死んでいくのでしょう。
私たちに今求められるのは、「何が自分に足りないのか」というところを突き詰めるのではなく、「何か足りないかもしれないけど、とりあえず今の私に出来ること」をゆるく見つめる姿勢ではないでしょうか。ガッツリ見つめてはいけません。あくまでもゆるくです。不真面目に頑張る姿勢とでも言えるかな。
「死なない程度に頑張りましょうや。」という意識を皆が共有できれば、組織は回るはず。そう信じたいです。先程のブログにも書きましたが、私は四六時中何かを考えているせいか、また頭が良くなってしまったのではないかと不安に怯えています。
頭が良くなるということは、その分悲しみを背負うことを意味しています。『アルジャーノンに花束を』のチャーリイのように。春馬君のことを時々考える私は、所謂、暇なのでしょう。読書や韓国語の勉強に精を出し、頭は忙しいものの、どこか足りない何かを感じています。
その「足りない何か」はおそらく、死というものと親和性が高い。亡くなった人の生前の姿勢を讃えられれば讃えられるほど、今を生きる苦しみを抱える人の死への憧れを強めてはいないか。マスコミは一度立ち返って考えるべきでした。
「無理に受け入れようとしなくていいし、納得しようとしなくてもいい。全ては時間が解決してくれるから。」というとっても優しいお言葉。そんな言葉を掛けてくれる人に出会えた運の良さよ。この人のために生きよう、と思える人が少なからずいる人生は素晴らしいよね。
先日、歯医者さんにて、顎関節症の治療でマウスピースを作成して貰いました。診察で先生に「日中も付けてますか?」と聞かれたので、「付けてます!!」と答えたら、先生が少し慌てた様子で「文系さん、無理のない範囲で!しんどかったら外して良いですからね!」と仰いました。フフ…何をそんなに慌てとんねん。
先生はおそらく、私が「日中も付けた方が良い」と言われたことを頑なに守り、苦しくても装着しているであろうことが分かったのだと思います。だから「無理のない範囲で!」と言ってくれたんだろうな、ということだけで頑張って生きようという気力になるのです。 チョロい?チョロすぎ?
「日中も付けた方が良い」と言われたら頑張って付けるし、とにかく言われたことはちゃんと守ります。ガチガチに守ります。その私の気質を理解してくれているのだろう、ということに安心感を覚えるのです。こういう何気ない、さりげない出会いが人には必要っちゅうこっちゃ。
人の話をちゃんと聞けば、相手も真剣に話してくれます。こちらがちゃんと話せば、相手もしっかり聞こうとしてくれるはずです。そういった優しくて暖かい人との触れ合いこそが、私たちが人間として生まれてきたことに意味を与えてくれると思うのです。
人生に意味が見出だせない時は、無理矢理でも自分で意味を作ろうとすべし。誰かが意味を与えてくれるのを待つのではなく、積極的に人と関わろうとすること。結局、私たちは人との関係性の中でしか生きている実感を得られないのかもしれません。
最近、立て続けにお世話になっている人から連絡を貰いました。何気ないメールのやり取りがとても楽しく、「やっぱり私は人に飢えているんだろうな。」ということを実感しました。春馬君、日々、多くの人に囲まれ、人に飢えるどころか、辟易する毎日だったのかな。
どうかそんな自分を許してあげて下さい。許せないから死んでしまったのかもしれないけど、私が代わりに許します。受け入れることが愛なら、許しって何だろうね。
春馬君がもう二度と私たちの前に姿を現さないという事実に立ち竦みます。活動休止じゃないんです。休養じゃないんです。それだけがただ寂しく、切ないんです。