他者からの評価、例えば優しくて癒されるといった嬉しい言葉を掛けられた時は、「私にも生きている価値がある」と思えます。しかし、少し想定外の反応をされたら私の存在を全否定されたように受け止め、うちひしがれてしまうのです。
自分という芯がなく、他者からの評判だけを頼りに生きているからこそ、急なアクシデントに弱いのかもしれません。自己評価が低すぎる原因もここにあるのかもね。他人から見た私がどう映るのか、他者にどう振る舞えば良い評価を貰えるのか、そんなことに躍起になっていたように思います。
小学生の頃、仲良しだった男の子に「お前は裏表が激しすぎる。」と言われました。うーん、確かに。小学生時分からそうなら、もはや生まれつきではないか。教師に見せる顔、同級生の女の子に見せる顔、男の子に見せる顔、確かにバラバラだったような気がする。
とりあえず先生からの信頼を得ていた私は、意外にも大人がチョロいことを早い時点で学んでしまったのかもしれません。まさに子役やん?劇団ひまわりやん?はるかぜちゃんやん?
ある時出会った女の子は言いました。「文系ちゃんは私が出会った人の中で一番優しいよ。」と。その時、私は自分がここにいることを肯定できるように、他者に優しく振る舞っているのだと気付きました。彼女のためではなく、「優しい文系ちゃん」という評判のために過ぎないのではないか。
狡猾な自分にもうんざりしました。でも最近は、そんなことは最早どうでもいいと思っています。私が人のためだろうが自分のためだろうが他者に親切にする。親切にされた方は「いつも癒される。」と言ってくれる。
ならば、もうそれで良いのではないでしょうか。これが私の性分なら、出し惜しみせずに振る舞っちゃえ。それが私自身の一時の安らぎに過ぎないのだとしても。「繊細さん」という言葉が言われ始めた昨今ですが、本当の「繊細さん」なら、自らの「繊細さ」を売りにはしないはずです。
そんなことは自分の美学に反すると思っちゃうんだなー。私はね。本当に肩書きが増えた世の中になりました。肩書きというものは、自称した瞬間から廃れていくものだと思います。言ったもん勝ち、ごねたもん勝ち、居直ったもん勝ちのこの世はまさに奇々怪々だね。