真に分け隔てなく、急がずとも必ず

ムキー!カフェにて子連れ二人組に席を占拠され、私を含む単身女性は席を追われてしまいました…おばはん、頭沸いとんか?ま、ゆったり席に逃げることが出来たので良しとしましょう。許さんが。公共の場であるカフェで、我が家のように振る舞う勘違いっぷりは許さんが。

私の隣に座ったお母さんが、ボーダーのトップスにハンターのブーツという出で立ちなり。実は私もなんでちゅ。何を双子コーデしとんねん!こんなおばはんと!(綺麗めなおばはんですが)ますます気に食わん。

ボーダーにハンターという私のお気に入りコーデが、実はありふれていたのかもしれない、という事実も認めたくない。単身女性×②を追い出しておきながら、やりたい放題な様子も気に食わん。スー、ハー、スー、ハー(深呼吸の音)

私、いつか怒り狂って死ぬと思うんです。コロナ禍(この言い方もあんまり好きではない)を経験し、ますます家族以外の人間が敵になってしまったようです。私たち家族は、一応思慮深く、慎ましく、常識的に暮らしていると自負しています。

しかし、世の中に出ると今回のように傍若無人なママたちに振り回され、いきり立ち、ストレスにより歯は痛み始め、もう死ぬしかなくなるんですね。父上は「もう無人島に行くか、ポツンと一軒家で暮らそう。」と憤死寸前な私を見て言います。

私はいつからこうなってしまったのでしょうか。もともとカチンと来やすいタイプですが、最近はもうぶちギレてます。お察しの方もいらっしゃると思いますが。最近はますます「自分達さえ良ければいい」という人間が目につくなあ。

譲り合うという精神は皆無のような気がする。特に東京のナオン。ここは家じゃないんですよ。カフェなんですよ。自分達が着飾ることに忙しく、子どもはアクセサリーじゃん。アクセサリーになるほど可愛くないのも腹立たしいが。

「正しく怒る」ということを私も忘れてしまったのかもしれません。今はまさに「どうでもいいことにいきり立っている」という状況に近い。おばはん達に席を追われたが、ゆったりした席に移動できたんだから良いじゃん。

そこに座り続け、騒ぐ子どもを目の当たりにしないで済んだんだから良いじゃん。違うんだなあ。ハンターのブーツのおばはんが「それなりに幸せです♪」という雰囲気を振り撒いているのが許せないんだなあ。人を追いやっておいて、自分達が楽しそうに振る舞うその無神経さに怒りが収まらないんだなあ。

嗚呼、歯が痛い。私はおそらく長くは生きられないと思います。だから最近は終活に励む日々。自分のことも周りの人間のことも許せないんです。すぐにカッとなる自分もとてもしんどいんです。早く楽になりたい、と願いながら生きるのもなかなかしんどいね。

ちまちま終活をしながら「何も選ばなかったから今があるのだ」ということを痛感します。私たちは日々、何かを選び、何かを選ばなかったからこそ、ここにいるのだと思います。これを自己責任と呼ぶのかもしれません。

何でもかんでも自己責任に集約されてしまう社会は、生きづらいのかもしれません。その中には不可抗力もあるでしょう。しかし、やはり自己責任だよな、とも思ってしまいます。それは私自身が自己責任に向き合わず、ここまでのらりくらりとやり過ごしてきた責任、その責任にここへ来て直面しているからです。

真に分け隔てなく、急がずとも必ず、私たちが終わることは宿命です。その宿命を受け入れて、その時が来るまでのらりくらりとやり過ごすのか。やり過ごせたらいいねえ。難しそうだけど。