A MIRACLE FOR YOU

こんばんは~。ぼちぼちブログを再開します。書きたいことは沢山あれど、言葉にするのが難しく、悶々とする日々でござる。ただいまミルクコーヒーを飲みながら、思考を整理しているところです。私は何をこんなに思い詰めているのでしょうか。

 ミルクコーヒーでも飲んでゆっくりしなはれ。考え込むのはやめなはれ。ハア、祖父が生きていてくれたらなあ、とこんな時はよく思います。私が小学四年生の時に他界した祖父。なかなかクセが強く、所謂「可愛いおじいちゃん」ではなかったかもしれません。
 
でも、私には沢山の愛をくれました。幼い頃から大人の顔色を伺う子どもだった私。またまた両親の顔色を伺っていたら、祖父が「文系ちゃんが(顔色を)見てるだろう!」と言ってくれたことを思い出します。それがとても嬉しかったな。気を遣いすぎるほど遣う私のしんどさを見ていてくれるという安心感。
 
だからこそ、亡くなるのが早すぎたと思います。失った人を心の底から嘆くことが、実は悲しみからの一番の回復方法なのかもしれません。小学生の頃の私は、祖父が亡くなった後、元気がなくなっていたようです。

それを見た同級生の男子達に「元気ないやん!」と口々に言われ、「元気出さな…」と頑張ってしまいました。皆バカなのでそっと見守るということが出来ず、私自身も「あれこれ言われるのがいやだから普通にしなくちゃ。」と意気込んだ記憶があります。

そうした小さな気負いを幼き頃から抱え込み、この歳にしてどうにもならなくなってしまったようです。アルバイトで子どもたちと触れ合った経験により、「子どもは大人をよく見ている」という私の実感が確信に変わりました。彼らは瞬時にその場にふさわしい振る舞いを選択し、大人の前で見せています。勿論、そんなのお構い無しの大物もいます。
 
ただ、私自身が大人を見るタイプの子どもだったので、そういった子達の気持ちは痛いほど分かります。その中でも私が大好きだった小学三年生の男の子がいます。あまりに愛しいので「アタイ、もしやロリコン?」と恐ろしくなった日もあったっけ。(遠い目)
 
彼は所謂「ニヒルな子ども」で話す言葉の全てがちょっぴり皮肉、でも核心を突く切れ味の良さ!おめめがとっても大きくて、吸い込まれそうになる魅力的な子どもでした。ある日、彼が宿題をしているのを見守っていたら、そこで一緒に働くおじさんが私の隣に立ち、彼を見ていました。
 
すると彼が一言、おじさんに向かって「何?」と言い放ちました。おじさんは「いやー頑張ってるなと思って!」と必死に取り繕いました。しかしまたまた「見るんじゃねえ!」と小学三年生の男の子に言われてしまいました。
 
それを見た私は彼に「人に向かってそういう失礼な物言いはよくない。」と言いました。すると「だって先生、この人はただの掃除のおじさんだ!!」と大きな瞳で真っ直ぐ私を見て言うのです。その辛辣な一言は、職業蔑視だから良くないとか、そんな話をしたいのではありません。
 
おじさんは私にとても親切で、穏やかな人でした。ただ、子ども達には私ほど興味も関心もなく、いつもゴミ出しを積極的に行っていました。私が当番の時も断っているにも関わらず、ゴミ出しを代わってくれました。
 
私はいつも「親切だな。いや、私の仕事だから私がやるのに。」と思っていましたが、小学3年生の目には「ただの掃除のおじさん」と映っていたこと。それが衝撃的でした。そして、彼は自分達に何の関心も向けない、ただの掃除のおじさんに分かったような顔をされたくない、ということを訴えたかったのだと思います。
 
親切だと思っていたおじさんが、自ら掃除に徹することで無関心さをカモフラージュしていたとしたら。大きな瞳の少年には、その全てが分かっていたとしたら。少年は数名いる職員の中で私だけを「先生」と呼んでくれました。私は先生ではないので、「先生じゃないよ。」と返すと「俺にとっては先生だ。」と力強く答えてくれたのです。
 
惚れてまうやろー!それと同時に「ただの掃除のおじさんだ。」という一言を放った彼が感じていた寂しさを思う時、無性に泣けてくるのです。私自身は被害者意識が強いので、「必死で良い子をやってきた」という思いにがんじがらめになっています。
 
だからこそ、子ども達を見ていると、どれだけ子どもらしく自由に振る舞えているのか、という気持ちになります。どれだけ自由に振る舞っていたとしても、ピエロに徹しているのかもしれないし、幼い心で必死に考えているのでしょう。
 
ある日、瞳の大きな少年は、鉛筆削りの掃除をする私の背中に、一枚のシールをペタッと貼りました。振り返って剥がすと、そこには任天堂マリオの星のキャラクターのシールがありました。彼を見ると、悪戯っぽく笑っているのです。「かわいい…」とまたしても慈しんでしまいました。
 
どれだけ年齢差があろうとも、人が人を思う気持ちは「贈り物」として捧げられるものである、とあのシールが教えてくれました。シールという形あるものとして贈られるものもあるし、私が彼に向ける暖かいであろう眼差しも贈り物です。
 
こうして人々は日々、気持ちやものを贈り合い、何かを交換しているのかもしれません。誰よりも幸せになって欲しい。瞳が魅力的な少年の明るい未来を願います。
 
(一人語り、失礼しますた)